珍しく実家の母(僕の実母)がやってきたときのことです。
リビング・洗面所、その他全てのスペースを我が物顔で歩き回る猫たちを見て、ぎょっとしていました。そして母が座ろうとしていたソファに「俺が先だぜ」と言わんばかりにすすっとやってきて、どんと眠りだしたアメショーを見てもっと驚いたようでした。
ツーシーターのソファでしたので、仕方なくその隣に距離をとって座った母は、帰り際にガムテープがないか、と訊いてきました。そうです。服についた猫の毛をガムテープで丹念に取り払い、それでやっと安心したかのように、帰路についたのです。
基本的に『動物と人間の生活スペースはきっちり分けたいタイプ』の彼女にとって、家猫と暮らす我が家の(というよりは現代の)スタイルは見慣れぬものだったのでしょう。僕はそんな家庭に育ったのでよくわかります。
これが良い悪いではなく、『昔はそうだった』のも理解していますし、僕が独立して以降ペットを飼育していない実家の両親が、今の事情を知らないのも仕方がありません。
「ほう」と気づきました。ということは、僕も含めて猫を飼っている方からすれば当然でも、「猫を飼われていない方からすれば驚き」の光景は実はたくさんあるのではないか? という記事です。
幼少期の頃のペット事情
僕の産まれ育った家庭とって動物とは、家の中にいるものではなかったし、あくまで飼育するものでした。つまり人間と彼らの間には、国境のような見えないけれども明白なラインが設定されていました。
また、一部のご家庭以外では動物と人間の距離感というものも今とは随分違っていたように思います。室内犬という言葉が、それほど出回っていなくて『犬は外の犬小屋に居るもの』だった時代です。
それに加えて
- 僕自身が3人兄弟で、育児に手がかかってペットどころではなかった。
- そもそも両親が動物をそれほど好まない。特に母は潔癖だった。
- 僕の小児喘息がひどく、ハウスダストや動物の毛といったものは忌避していた。
という我が家固有の事情もありました。まあ、動物を飼育する動機がない、といったのが正確なところでしょうか。
じゃあペットを飼った経験はないのか? と訊かれるとそうではなくて、小学校のころに犬を飼ったことがあります。
犬小屋へご飯を届けるのが僕のミッションでした。鎖につながれたまま餌を食べる犬を撫でるのが楽しみだったのですが、接している時間が長いとすぐに喘息の発作を起こすような虚弱な子供だったので、「3回だけ撫でよう」と決めていたのを思い出します。
その犬との生活の後は、「やはり毛のある動物だと喘息になってしまうのでは」ということで、体毛のある動物の飼育が禁止されました。
金魚だったりカブトムシだったりといった昆虫や魚類を世話したことはありますが、それ以降ほ乳類と生活したのは、今の猫たちが最初だったりします。
毛の生えた動物と暮らすのは久しぶりでしたし、猫という生き物の傍若無人さだったり、不思議だったりする特性を知らなかったので最初は驚きの連続でした。
今となっては「昔は僕君、恐る恐る猫たちと接してたのにねえ」と妻にと言われるくらいには慣れておりますが、「猫と暮らすまで、当然ではなかった景色」を3つほどご紹介いたします。
ケース① 寝室を共にする
小児喘息の原因と思われるものは徹底的に遠ざけて生活していた僕にとって、寝具、つまり布団に体毛のある動物が接触する状況というのは基本的にありえないことでした。
以前どこかで書かせていただきましたが、アメショーを迎えた当初ベットルームへの入室を制限しようと思ったのは、この感覚に起因していたのかも知れません。
もちろん今となっては、状況が全くちがいます。
僕のベットは僕自身よりもむしろ彼らのほうが使用率が高い気がしますし、猫がいないタイミングで横たわっても「縄張りをとりやがって!」とでも思っているのでしょうか。足元や頭の上をのしのしと歩き回ります。
就寝後に関しても「おお、太ももの上が重い」と思って目覚めるような『のしかかられ系』はまだよかったりします。一番困るのは人の顔の上を通過されるパターンです。
ぐっすりと深い眠りにあったとしても、上を向いている顔の上を通過されるわけですから猫の腹が僕の顔面を直撃します。鼻にファサっと毛が入り渋々起こされるはめになるのです。
更にこの『顔面通過』行動ですが、通過してくれるぶんにはまだ良かったりします。あろうことか僕の顔の上で静止していることがありました。息苦しくて目覚めると『毛だらけの腹』に窒息しそうになるわけです。なんでそこで止まるんだ?
実際に猫と暮らさないと、こんな目覚めは経験できませんね。
ケース② 洗面所を占拠される
これも幼少期の感覚で言えばありえないことだったのかなあと思ったりします。『清潔さ』の象徴のような洗面所を猫に占拠されてしまうのです。
最近はもっぱら在宅勤務なのでまだ融通がきくのですが、『朝の忙しい時間』に限って彼らはなぜか洗面所に居たりします。
後述しますが、『トイレのタンクから流れる水』を最も好んではいるものの、洗面所の蛇口から滴る水も好きだったりするのです。
どうして誰も使っていない時間ではないのか? 一番忙しい時間ほど邪魔になる場所にいるのはなぜなのか? これは猫を飼われている方であればご経験されていると思うのですが、そんなタイミングで、そんな場所を占有するのが得意なのが『猫』という生き物なのです。
「顔を洗いたいけど、ちょっと待つか」とナチュラルに順番待ちをしている状況、これも実際に猫たちと生活を共にしないと、目にする機会のない光景かも知れません。
「あれ、まだ歯を磨いてないの?」と言う妻に、洗面台の上にいる猫を指さすと「なら、仕方ないね、多分すぐ終わると思うけど」とのことでした。家族であれば平等に順番待ちをするのも仕方がありませんね。
ケース③ トイレでの熱い眼差し
アメショーの特性として、『トイレのタンクに流れる水が一番好き』というものがあります。水置き場に用意されたものは、渋々飲むといったことが多く、やはり流れる水の魅力には勝てない様子です。
トイレのドアの前でみゃおみゃおと人間を呼び「俺はタンクに流れる水を飲むのが好きなんだ」とアピールされると、3回に1回くらいはやむを得ず水を流すこともあったりします。
それがいけないのでしょう。普通に用を足しにトイレに入ろうとすると「え? 水出してくれるの?」と勘違いしたアメショーは珍しく見せる俊敏な動き(普段は寝てばかりのくせに)で、すすっと一緒に入ってきます。
「頼む、落ち着かないんだ」と思っても頑としてその場を動きません。
ちょっと想像していただきたいのですが…
足元の猫から「期待の眼差し」でじっと見つめられながら用を足す
という恐ろしい事態になったりします。彼らと暮らして8年以上が経ちますが、こればっかりは慣れるのが難しいなあと毎回思います。
「トイレに入る際には猫に気付かれないようにする」ように努力しておりますが、冷静に考えるとこれ変ですね。人間が猫に負けない機敏な動きでトイレのドアを閉めるという変な習慣がついたりしました。
猫と暮らすまで当然ではなかった景色
冒頭にも書かせていただきましたが、僕の育った家庭では
- 猫に限らず動物とは不潔なもの
- 動物の毛はアレルギーの原因
- ペットとは飼うものであって、人間の生活とは一線を引く。
動物についてこんな暗黙の了解があったように思います。
あながち1も、2も間違ってはいません。彼らが用を足すシーンを見ればわかりますが、「おい、今砂じゃなくて本体蹴っただろ!」という後ろ脚で、その辺りを歩き回ったりします。気づいたときには雑巾で拭くようにしているのですが、毎回チェック出来ているわけではないので、見落としているパターンもあることでしょう。
また、私事になりますが2年前に花粉のアレルギー検査を受けてみました。見事に猫アレルギーも存在していることが判明してびっくりしました。特別何かの自覚症状があるわけではないし、あまり気にしていないのですが人によっては切実な問題なのもわかります。
幼少期の頃と今の生活で、一番の違いは3番目の「人間と動物の距離」かなと思います。
僕が幼かったころ、公園には首輪をした猫たちがたくさんいました。道路わきにじっと座っている猫もたくさんいました。外飼いが当然だった状況が段々と改善され、そういった光景を目にすることの方が少なくなってきました。
猫たちの生活スタイルが『家猫』になっていくに従って、人間との距離はほぼなくなってきたのでしょうか。それもあるとは思うのですが、彼ら特有の『距離感のなさ』『あくまで平等なんだ』という行動様式が、今は人間の生活と混ざり合っている状態なんだろうな、と思ったりしています。
今回ピックアップした例はあくまで一部です。猫たちと暮らすことにすっかり慣れている僕が気づかないだけで、猫を飼われていない方からすると「え?」と思われるシーンも生活の中にはたくさんあるのかも知れません。
「ペットを飼う」という言葉自体が、今となってはナンセンスなのかも知れません。僕自身は彼らのことをペットという認識ではなく「生意気でえらそうな家族」だと思っています。
「家族に迎える」この方が現代の猫との生活を表現するには適切なのかな、と考えました。
そんな記事です。
追伸です
メインに使っているPCのHDDが飛んでしまい、復旧に時間がかかりました。こんな記事でもお読みくださっている皆さま、間が空いてしまい、申し訳ありません。
画像ソフトやら他アプリやら完全復旧には時間がかかりそうです…バックアップ大事だ…
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