何かへの愛情を持った場合、色んな表現方法があるかと思います。
例えば、特定の女性を好きになった場合「たくさんお話をしてみよう」とする人もいれば「彼女にプレゼントをしまくろう」とする人もいるでしょう。もしかしたら彼女の為に「歌を歌ってみよう」という奇特な方もいるかも知れません。
そうなんです、愛情の表現方法は実に様々なんです。
愛情の表現方法に多分正解はありません。「正解のようなもの」があったりするだけです。
今回は僕が今の場所に住み始めたときに知り合った、お爺さんのお話です。
これ以上ないくらい猫を愛したお爺さんのお話です。
下見時点でアラート
色んないきさつで、今住んでいる自宅の購入を決めるときのことです。
「かなりの下町」という知識くらいはあったのですが、その場所に全くなんの知識もなかった僕は偵察に出かけることにしました。
初めて降りる駅を出て、不動産屋からもらった資料を手に下町風情そのものの住宅地を歩きます。何分か進み、明日か明後日には購入のサインをしようという物件にたどり着きました。
まだ柱と壁の一部だった我が家を見あげ、「どんな人が回りに住んでいるんだろう」とか「街道からの騒音はうるさくないのかな」などを、事前チェックしようと考えていたのです。
しばらく眺めていると、その建物の向かい、つまり僕の家の向かいにある建物から、足取りのおぼつかないご老人が時速0.1キロくらいのスローモーションで、こちらに向かってくるのがわかりました。お爺さんは猫を抱えています。
「何か用事かな」と思ってこちらから挨拶をしたのを覚えています。「こんにちは」とかそういう一般的なご挨拶です。しかし、そのご老人は言いました。
「あんた日本人か?」
真意がわからなかったので答えに戸惑いました。ええ、日本人だと思います。と僕は答えました。
「この家買ったのか? 日本人なら大歓迎だよ、あんた買うべきだよ」と彼は言います。
正直に申し上げて「おお、間取りも駅までの距離も丁度良い物件を見つけたとういうのに、ご近所関係にひとつイエローカードだぞ」と僕は思いました。
付き合い方を間違えると、トラブルになりやすいタイプのお爺さん、これが初めてお会いした際のLさんへの印象でした。
妻への報告
「どうだった? 周辺環境とか…」
その日の夜に妻から聞かれます。まあ、当然です。僕は間取りも距離も希望通り、多少道が狭いけれど、多分良い物件なんじゃないかと説明します。そしてもちろん懸念事項として、「ちょっと変わってそうなお向かいのお爺さん」の話も付け加えます。
「へえ、でも猫を抱っこしてたんでしょ?」と妻は言います。「じゃあ、大丈夫だよ、猫を抱っこしてる人に悪い人はいないから」と彼女は楽観的な様子でした。
妻の予想は、多分まちがっていませんでした。
お爺さんは有名なエサやりさんだった
バタバタと引っ越しを終え、絶望的な額のローンに眩暈を覚えたりしながらも段々と生活が軌道に乗って来ます。下町を絵にかいたような町内で、ご近所に挨拶をしたり、毎朝声をかけてくれる方が増えてくるにしたがって、色々なことがわかって来ました。
そうです。Lさんの人となりです。
Lさんは、毎晩21時くらいになると、時速0.1キロくらいのスピードで出かけていきます。カン、カン、と間の空いた階段を下りる足音が聞こえてくるのが合図です。「おお、こんな夜中に散歩ですか?」と声をかけてみたところ、使命感たっぷりの顔をして
「猫たちが待ってるからねえ」と答えてくれました。
そうです。Lさんは少し離れた公園の猫たちの元へ向かっていくのでした。『エサやりさん』です。
春夏秋冬、どんなに雨が降っていても、風が強くても、或いは世間を騒がせたほどの台風だったとしてもLさんはエサがたっぷりと入ったビニールを持って、欠かさずに公園に向かっていきました。弱った足もとでフラフラしながら歩いてはいましたが、まさに年中無休のエサやり爺さんです。
Lさんの飼い猫
365日欠かさず公園の猫にエサを与えに行くLさんでしたが、自宅にも猫を飼っていました。そうです、初対面の際、抱えていた猫です。といっても、現代的な飼い方ではなくて、外も中も自由に行き来させる飼い方でした。
実はこの家を飼った当初、妻が「野良猫が二匹いるのよ、真っ黒な猫と茶色で足だけ白い子」と気づいた猫は、Lさんの飼い猫でした。初めてお会いしたときのLさんは、『野良猫を抱えたご老人』ではなく、『飼い猫を抱っこしたご老人』だったというわけです。
ずっと野良の2匹だと思っていた僕たちはその2匹に「ボス(という風格の黒猫)」と「伯爵(白い靴下のような毛皮が上品に見えた)」という名前を勝手につけて、時々写真を撮ったりしていました。2匹共、猫らしい猫で非常に図々しく、ふてぶてしい猫たちでした。
まだ新しい僕のバイクのシートの上で昼寝をし、時々そこに糞をしました。頭に来てバイクにはシートをかぶせるようにすると、それが気に食わなかったのか、タイヤめがけてマーキングをしてくるようになりました。「ボス」と「伯爵」。恐ろしい猫たちですが、なんとなく憎めなかったのも事実です。
気が向いたときに、「ちゅーる」などを買って与えていたりしていました。その時にLさんから声をかけられたのがきっかけで判明したのです。
「うちの猫たちにありがとうねえ」
ずっと野良猫だと思っていた僕たち夫婦は驚愕しました。しかもその2匹共がLさんの飼い猫だなんて想像もしていなかったからです。
Lさん
保護猫ボランティアを始めようとしていた頃の妻が言います。
「Lさんってさ、絶対悪意はないよね。自分が思う『猫の幸せ』を考えてやってるよね」
恐らくそうでしょう。僕は頷きます。
「外飼いは危ないとか、避妊去勢はしたのかとか、あのご年齢の人にとやかく言っても…、難しいよねえ、しかもLさんって曲がらなそうな性格っぽいし」
妻と同じくらい曲がらない性格に見えるねえ、とうっかり答えてしまいちょっとした修羅場になりましたが、それは別のお話です。
実際その頃になると、Lさんの逸話はいくつか耳に入っていました。
既に94歳であること。あまりの頑固さに、ご自身のお子さんも滅多にやってこない状況だということ。
→ かなりご年配だとは思っていたのですが、相当なご高齢です。お子様がいらっしゃったのは驚きでした。
同じ話を1日中する為、奥様とは別居されているということ。
→ 奥様のご年齢はわからなかったのですが、きっとご高齢の方だと思います。別居を考えるほどの同じ話とは一体…
シベリアに抑留されていた経験があり、外国人が大嫌いであること。
→ 僕が日本人かどうか訊かれたのは、こんな理由があったようですね。実に大変なご経験をされてきた方のようです。時々僕にシベリアで自作したスプーンを見せてくれました。
とにかく猫が好きで、どんなに体調を崩しても入院しない限りはかならずエサやり行脚に出かけること。
→ やはりそうでした。本当に毎日お出かけされていました。
エサやり行為のせいで、トラブルも経験していること。
→ 勝手にエサをやるな!と公園のご近所の方とも何度もトラブルになっていたそうです。まあ、普通に考えてそうなるかも知れません。
しかしLさんは「あいつら(猫)が腹減らしたらどうするんだ、俺は空腹の辛さを良く知っているから放っておけないんだ」と、気にもしていなかった様子でした。逆境に燃えるタイプの頑固なお爺さんです。
それ以外の猫関連のトラブルもあったということ。
→ 飼い猫に飽きてしまって、エサも与えず家の外に放り出したままのご家庭があったそうです。どんどん痩せていく猫がいる、と気づいたLさんはそのお宅に怒鳴りこみにいった、とのことでした。
割と壮絶な怒鳴りあいが繰り広げられたらしく、ご近所でも有名な事件のようでした。「ネコ1匹、満腹に出来ねえ人間には用はねえ、この猫はうちで飼う!」と吐き捨てたLさんは実際にその猫を飼うことにしました。そうです。伯爵と呼んでいた足だけが白い茶猫がその猫のようです。
Lさんとの最後の会話
3年ほど前にLさんは他界されています。
「ちょっとね入院することになったんだよ、あんた代わりに猫たちにエサをやれないか?」
Lさんとの最後の会話がこんな内容でした。
ボスと伯爵にエサをあげるくらいなら僕でも出来そうだなあとは考えていたのですが、どうやらLさんは『エサやり爺さんとしてのミッション』である公園行脚まで僕に依頼しているようでした。
その会話が最後だとわかっていたら、「任せてください」くらいの事は言えたのですが、なんとなくLさんがまた戻って来るものだと思いこんでいた僕は断りました。僕の予感はいつも外れます。
Lさんは、「そうか、すまなかったなあ。別の人に頼むよ」と寂しそうでしたが、果たして「別の人」を見つけられたのかどうかは不明です。妻が何度かその公園に偵察に行ったそうですが、猫そのものを見つけられなかったとのことでした。
また、『ボス』と『伯爵』については、Lさんの知人の方がひきとっていかれたそうです。
Lさんの遺言
「父が生前大変お世話になったそうで…」と我が家に突然やって来た女性は、Lさんの娘さんでした。やはりなんとなくLさんが戻って来るものだとばかり思っていた僕は、改めてご年齢を思い出し、やるせない気分になりました。
「大変だったでしょ? うちの父、同じ話ばっかりするから」最初に提供された話題がこれでした。ご親族の方たちは『同じ話を何度もすること』については、非常に厳しい方々のようです。
「いえ、とても興味深いお話を聞かせていただきました、残念です」と僕は答えました。
「同じ話ばっかりするし、猫ばっかり可愛がるし、それでも、あんな父でしたが、育ててもらった父なんです、最後に(僕)さんに渡してくれって言われたものがあるんですけど、受け取っていただけますか?」
「なんでしょう」
どうやら、自分がもう長くないことを悟っていたLさんは、娘さんにこんな事を伝えたようです。買い置きしてある猫たちのエサを全部僕に渡すように、と。
快くいただくことにした僕はその量に驚愕しました。次々に運ばれてくるキャットフードが目の前に積みあがっていきます。
「押し入れ全部猫のエサだったんです」と言われて納得はしましたが、かなり古くに買われたものから、なぜか少しずつ開封され、輪ゴムで縛られたものまで様々でした。きっと、猫たちがあまり食べないテイストのものは即与えるのを止めたんだろうなあ、と想像しました。
妻と一緒に、我が家の玄関前に積みあげられたキャットフードを賞味期限で選別しましたが、それでも巨大な段ボール2箱分くらいの量が残りました。
猫を愛したお爺さんの話
先日、月の明るかった夜のことです。
「ねえ、ちょっと来てよ」と窓から外を見ていた妻が言いました。
Lさんが暮らしていたお宅は、今は現代風のこじんまりした集合住宅になっています。妻が指さしたのはその敷地に横たわる2匹の猫でした。
「ボスと伯爵思い出さない?」
毛並みも体形も違いますが、2匹の猫がその敷地にいる、それだけでなんとなく彼女の言っていることがわかりました。遠めにも首輪が確認できるので、どこかのお宅の飼い猫のようです。
「この辺、外飼いは危ないんだけどなあ…」と呟く彼女に言ってみました。
「Lさん、今頃どうしてるかな」
「そうねえ」と妻は考えています。「Lさんが今まで飼ってきた猫たちに囲まれて、楽しくやってるんじゃないかしら」
確かにそんな気がしました。猫の天国と人間のあの世が同じであることを祈りました。
「多分、猫の飼い方としては正しいって言われてるものじゃなかったし、無造作に野良猫にエサを与えるのはきっと、問題が増えることの方が多いと思うんだけど、Lさんほど猫が好きっていう人ってそうそういないと思うんだよなあ」と妻が言います。
「そうだろうねえ」
「あれだけ猫を好きで、好きで好きでたまらなくて、年をとっても行動出来ったってのはすごいなあ、その情熱と行動力って羨ましいしさ、私なんかまだまだだよ」
猫だけでなく、愛情ってのは夫に向けてくれてもいいんだぞ…、と思いましたが口に出さないことに成功しました。僕も少しは成長しているようです。
そんな記事です。
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